EXHIBITIONS
【アート格納庫M 第二回企画展「風を通す flow through」】
2024.7/6(土)~9/1(日)
【アート格納庫M 第二回企画展「風を通す flow through」】
10:00-17:00 入館は16:30まで
入館料:大人1000円, 学生800円, 中学生以下無料(要保護者同伴)
アート格納庫M
鳥取県倉吉市秋喜350-23
https://www.arthangarm.com
REVIEW
中桐聡美の新作
アート格納庫M第二回企画展記録 中桐聡美展覧会「風を通す」 2024年8月10日 より
尾崎信一郎
中桐聡美は2022年に母校である京都市立芸術大学のギャラリー@KCUAで開いた山田真実との二人展に「測鉛をおろす」という象徴的なタイトルを与えた。「測鉛をおろす」。私たちもこのキーワードから始めてみよう。
測鉛とは聞き慣れない言葉であるが、「綱の先に鉛をつけ、水中に投げ入れて水深を測る器具」のことだ。この喚起的な言葉から私たちは直ちに中桐の作品の本質と関わるテーマを取り出すことができる。すなわち測鉛とは海や湖といった水平の対象に対して常に垂直に投下される。水平と垂直の軸性は中桐の作品を読み解く鍵ではなかろうか。
中桐の作品における水平、それはまず転写されるイメージと関わっている。中桐が2020年以来制作を続ける一連の作品は彼女が育った岡山の海を撮影した一枚の写真をもとにしており、画面の下半分には海が写っている。きらめくさざなみ、沖合の船、橋の橋脚と遠くに浮かび上がる島影。注意深く眺めるならばそこには瀬戸内海という海の広がり、水平的な風景が写し出されていることが理解できるだろう。中桐はこのイメージを反復して使
用する。同一イメージの反復はポップ・アート以後、現代美術においても多用される手法である。そもそも版という表現は同じイメージを無数に転写するという目的のために発明されたのではなかったか。しかしながら中桐の作品は二つの点で反復と複製に抗う。一つは海というモティーフだ
。打ち寄せる波、光のきらめき、海を撮影した写真に写り込むこれらの要素は一瞬として同じ光景として現れることはない。風景とは本質において無限の変容の相であり、ことに波のうねりと光のきらめきを伴った海の風景は常に変化の中にある。このようなモティーフの選択は中桐の作品の本質と関わっている。中桐は自らが「記憶や感情といった、明確な形がないものの『うつろい』」を作品の主題とし、それは「形を変えてもなお残るものもあれば、跡形もなく消えていくものもある」と記している。(01)かたちがなく様相を変え、時に残り時に消える。この言葉はあたかも海の風景を言い当てているかのようだ。それは永遠の変化の相であり、二度と同じかたちをとることはない。中桐が反復して用いるイメージは潜在的にかかる反復不可能性を暗示している。一方で中桐の作品は顕在的にも反復への抵抗を示す。ひとたびシルクスクリーンによって転写されたイメージはカッタナイフによって切り裂かれ、水性インクの滲みによって毀損され、個別のイメージへと変貌するからだ。同じ写真を用いながらも、作品はそれぞれに異なった傷を負っている。私たちが海景に眼差しを向ける時、私たちは直立した姿勢で対象をとらえる。風景が成立するためにはその前に人が直立することが必要である。一方でカッターナイフの刃先は水平に置かれたイメージに対して垂直に差し込まれる。今挙げた二つの体勢はいずれも対象と直交する軸性を示している。このような直交のメタファーとして測鉛はまことに似つかわしい。この展覧会のフライヤーで中桐と山田は版画のプロセスを「境界」を超える行
為に近いと断じたうえで次のように述べている。私たちは制作のなかで、船上にいるかのように揺れ動く自身との関係性を考えながら、海面にたとえられた「境界」を超えたその先について知ろうと試みています。(02)ここでも海面が登場する。船上から見下ろす視線も海面に対して垂直的である。このテクストで中桐と山田は「境界」について論じているが、私は境界に向かう作家の位置、作家の体勢にこそ関心を抱くのだ。通常、版画は作業台の上で水平の状態で制作される。しかしそこにカッターナイフの刃先が垂直に差し込まれる時、別の原理が作動する。この点についてかつてレオ・スタイバーグはラウシェンバーグやデュビュッフェと関連づけながら次のように論じた。私はこの言葉をフラットベッド型印刷機[水平の台で、その上に水平の印刷面を載せる]から借りてきている。そしてここでこの語を1960年代に特徴的な絵画平面を記述するために用いることを提案する。-つまりこの60年代の、人間の体勢に対して直角に差し込まれるような画面は、その内容が変化するにあたっての前提条件となっているということだ。(03)スタインバーグはこのように述べることによって、視覚的な営みとみなされ、スクリーンを範例としたモダニズムの絵画に対する「別の批評基準」を示した。中桐もまた写真を転写するシルクスクリーンの版画が志向する複数性、中立性にあえて異和を唱え、版画が秘めていた「別の可能性」へと道を開いた。それは海という水平的なモティーフを選びながら、画面に対して垂直の力を差し込み、作家の痕跡を刻むことによって作品の単数性、単独性を確立することである。この点は中桐同様に海景を主題として一連の作品を制作したもう一人の作家を召喚することによってさらに明らかになるだろう。いうまでもない、その名も海景(SEASCAPES)と題された連作を発表した杉本博司である。
杉本は20年にわたって世界中で海景を撮影し、一群の作品として発表した。中桐と杉本は海景を主題とする点以外にもいくつかの共通点がある。杉本は世界各地、異なった場所で水平線が天地を分割する情景を撮影しているが、両者はともに水平線を画面の中央に配すことによって画面を二分割する点で一致し、同一の構図を反復する点においても共通している。あるいはともに色彩を抑制したモノクロームの表現であり、しばしば一種の不鮮明を内包している。一方で両者の差異はどこに求められるか。まさに画面の軸性と関わっている。中桐の場合、海景は上方に橋の橋脚や島影を配置することによって水平方向への広がりを暗示する。この水平性は版が置かれる作業台へとつながっているだろう。作家は作業台の上で垂直にイメージを切り刻む。これに対して杉本の海景には一切直交する軸性
が介在しない。おそらく杉本は海に面した高所から風景を切り取る。光や霧といった要素が作品にヴァリエーションを与えるとはいえ、杉本の作品には人や生活の痕跡が残されることが全くないため、海が写されていることを示すのは波の連なりだけであり、それさえ不鮮明な場合、画面は抽象化される。スタインバーグと関連してスクリーンという言葉を引いたが、垂直の海を垂直の海として提示する杉本の作品もまたスクリーンを暗喩としており、かつて同じ作家がまさに劇場のスクリーンを撮影し、光の矩形として表現したことも連想されるだろう。垂直を垂直のままに差し出す杉本の手法は写真という媒体と親和し、それは端的に私たちの視覚を模している。これに対して中桐は水平の海を垂直に置き直すことによって、視覚とは別の原理を作品に導入する。それはカッターナイフの刃先が画面を切り裂く触覚であり、この意味で先に私がその痕跡を傷になぞらえたことの意味も理解されるだろう。そしてここに中桐が版画という表現を選び取った必然性が明らかとなる。
今回出品される新作において中桐は倉吉にほど近い東郷池の風景を作品に取り入れるだけでなく、古い建築から取り外された窓のガラスを支持体とする新しい試みに取り組むという。シルクスクリーンは多様な表面に対して応用可能であるとはいえ、物質性の強いガラスに転写されることによってイメージ自体が物質性を増し、イメージを毀損する行為もきわめて触覚的な営為となるだろう。そしてそこにはさらに新しい軸性が加えられるはずだ。なぜなら窓ガラスとは本来的に垂直に設置される構造であり、水平の作業台の上に置かれる時、あらためて垂直と水平の葛藤を経験することとなるからだ。錯綜した垂直と水平の関係性の中からいかなる新しいイメージが立ち現れるか。中桐の新作を待ち望むゆえんである。
(01)中桐聡美「自身の制作・研究について」(博士課程進級にあたっての制作メモ)2023年
(02)中桐聡美、山田真実「側鉛をおろす」展フライヤー 2022年
(03)レオ・スタインバーグ「他の批評基準」(林卓行訳)『美術手帖』1997年3月号 179頁